カテゴリ:今更言えない事( 4 )

2008年 02月 10日
そんなこといわれても・・
今ははるか昔の学生時代、確か2年次に児童文学の講義を受けた事がある。必修ではなかったような気がするけど、定かではないが、たまたま次の講義まで空きがあったので、入れたように思う。児童文学には正直なところ、興味が無かった。

やはり、そういう不純な動機で、受けた講義は面白みも感じられずに、出席する事はしたが、持ち込んだ文庫本を読んだり、はたまた居眠りをしたりで、全く身が入らなかった。

夏休みに町で、少し親しくさせていただいていたS教授と出会い、お茶でも飲むか、ということになって、先生、お気に入りの喫茶店に入った。

君、N先生の講義受けてるの?    はい、受けてますが。 
どう? 面白い?        いえ、正直なところ、ついでに入れた講義だし、興味も今ひとつで、ちょっと。・・・・・ところで、どうして、そのようなことを。
いやぁ、N先生から言われたんだ。mamatenさんを知っているか、と。私の講義も受けているから、知ってますよ。と答えたら、あの娘は私の妻に瓜二つ、そっくりなんですよ、と嬉しそうに言うんだよ。    !!・・・そんな・・・。

S教授によると、N先生は結婚して間もないそうで、(その年に赴任したばかりだった)
かなり奥様にメロメロらしく、離れている時は寂しいんだそうな。それで、春からの授業で妻にそっくりな私を見つけたときは驚いたそうだ。そして、ついつい、講義の合間に妻を思いつつ、妻の面影を私に重ねて見ていたらしい。  

嘘!
そういえば、何とはなしに、N先生の視線を感じる事があった。浅い、時には深い心地よい眠りから覚め、顔を上げると、よく視線が合った。あれは偶然でなく、必然だったと言う事か。はずかしい・・・。なんで早く教えてくれなかったの、S教授!!

そういわれても、私にはあずかり知らぬ事だし、先生、一体私はどうしたらいいのでしょう。
そうだねえ、まあ、たまにはにっこり微笑んで、優しくしてあげたらどうですか?
・・・・・・・・あのぉ、このことは他の先生方も知っているのでしょうか。
そうだねぇ、他の先生方にも嬉しそうに話してましたよ。
・・・・・・・・・


こう言っては悪いが、N先生は決して二枚目なんかじゃなく、お世辞にも好青年と言う形容詞を持ち得ない印象だった。(ごめんなさい、奥様)その彼が選んだ妻が私と似てる? つまり、彼の妻の趣味は彼なのだ。と言う事は、私にも有り得るかも?などという、頭がどうにかなりそうな、わけのわからない混乱状態に陥ってしまった。
とんでもない奴に見込まれたものだと、巻き込まれたものだと・・・。

後期の授業が始まって、N先生の顔を見るのが苦痛だった。出席したくない、どんよりした気分だったが、こんな事で単位を落とすのも馬鹿らしい。それまで真面目ではなかったにも拘らず、猛然と反骨精神が湧き上がり、覚悟を決めて後期の授業は真面目に出た。
もちろん代返など頼める筈が無いので。
そうして、視線が合うと、にっこりと、微笑返しをする事にした。少し嬉しそうな反応があったのは気のせいだろうか。

他の先生方の、意味ありげなにこやかさも理由がわかったので、流す事が出来た。
かくして、我慢をする、と言う最大の勉強をした私はAの評価で無事に単位を得た。
周りでは厳しい評価をされた、という声ばかりだったが。
そのAの評価が、私の学力か、N先生の優しさなのか、わからない。多分、先生の優しさだったのだと思う。今になって。
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by mamaten | 2008-02-10 00:18 | 今更言えない事 | Trackback | Comments(2)
2007年 09月 24日
昔、白いコスモスが大好きだった。
両手いっぱいに抱えた白いコスモスを、大好きな人に届けたい・・・・。高校卒業ぐらいまで、ずっと思っていたけれど、到底無理なのを悟ってからは、そんな思いもいつかどこかへ影を潜めた。

お嫁に来た家は、庭が綺麗に出来ていて、いわゆる日本の庭。草花など無かった。主人の母は「仏壇に飾れる菊以外はいや。」と言って、草花などに全く興味が無かった。

やがて、長男が幼稚園に通い始めると、「先生にお花、持って行く!」と言い始めた。幼稚園の先生は、「家にお花があったら、持たせてください。」と言っていたので、1人が持っていくと、子供だから、自分も、と言うことになったのだろう。でも我が家には秋の菊しかなく、春には石楠花か、皐月か、つつじ、そんなものしかなかった。子供の目には、花って言うと、春ならチューリップ、パンジー、水仙、菜の花等だったのだろう。長男は言った。「どうしてウチには花が無いの?」

それは素直な感想だろう。大体変だよ!このウチ!庭に季節の草花が何も無い。実は私もずっとそう思っていた。

長男にそう言われた義母はお花屋さんで、カーネーションとカスミ草の花束を買ってきて、「明日、幼稚園に持って行きなさい。」と胸を張って長男に言った。長男は持っていく花が手に入ったので、次の日、喜んで、登園した。

「何か違う!」・・・・
帰ってきてから、私は長男に言った。「今日はおばあちゃんが買ってくれたお花を持って行ったけど、お店で買うお花より、お庭で咲いたお花のほうが先生もお友達も喜ぶから、今度はお母さんがお花を咲かせるから、そうしたら、また幼稚園に持って行ってね。」と。長男は素直に頷き、「チューリップがいい!」と言った。

それから、幼稚園に持たせる花のために、私は球根を植え、種蒔をするようになった。何しろ、子供たちはチューリップがいつ咲くのかも知らなかったから。車庫の脇に小さなスペースをもらったので、そこで、チューリップや季節の花を育て、子供たちに花を持たせました。でも、庭は、それから数年間は義母との‘闘い‘で、目立たないように庭に植えては抜かれ、植えては抜かれの繰り返し。山野草だって抜かれちゃう!・・・・無駄な抵抗はやめて、コンテナ植えにたどり着きました。庭も「庭師さんに言われた。」と言うと、不満そうでも渋渋、納得して、山野草は抜かなくなりました。・・・でも、変わっていると思う。敬老のお祝いで、鉢植えの花など貰っても、「生物は嫌い」と1日で、裏山に捨ててある・・・・。

山百合も、その他のいろんな花もそれぞれに好きだけど、秋になると、又思う。白いコスモス・・・。

かくて、もともと花好きだったのも手伝い、日常のストレス解消にも役立ち、ずっと花、育てています。
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by mamaten | 2007-09-24 15:26 | 今更言えない事 | Trackback | Comments(7)
2007年 08月 06日
雅号
私にはもうひとつの名前、雅号があります。
書道の師範を頂いて得た雅号です。

当時指導されていた先生は『私の雅号の文字は字の意味としてはあまり良くないかいら。』と、私が望んだにも拘らず、雅号の文字を与えてはくれなかった。尤も、先生はその後、雅号を変えたので、本当にそうだったのかもしれない。

それで、一生懸命考えて、中国の故事から選びました。『玉章』です。日本語で、「たまずさ」、つまり、手紙のことです。ただ単に、私の作品を見た人が、「元気でいるんだなあ。」と思ってくれれば言い、と単純な気持ちで決めたのですが、後で知ったところによると、高名な書家が居られたようで、とても恐縮し、恥ずかしくなってしまいました。

私が書道の師範を取ろうと思ったのには理由がありました。

当時、私は何のとりえもない、ただ単なる若い娘だったので、結婚に対して、漠然と不安があった。それは『夫が若くして逝ってしまったら、子供たちをどうやって育てよう・・・・』 と言うことだった。それはジツに20歳のとき。!!

姉のように教師になるべくもなく、何の資格をなく卒業してしまうことに不安を感じ、(教職は執っていなかったので)何か、モノになるものを探したら、書道しか残っていなかった。

華道も少しは習ったけど、師範を取るにはあまりに長い道のりだったし、その当時はパソコンをするにも勇気が要ったし、で、残すところは書道しかなかったのです。

書道は子供の頃習っていて、児童の部では最高位まで行ったので、辞めていた。

『これしかない!』と思った私の行動は早かった。早速、塾では無く、学校を探し、入学手続きを取った。それから、週末に都内の学校まで通うことになった。これは苦しいながらも、楽しい時期だった。大学を卒業してからも週末の東京行きは続いた。

そうして、やっと、師範を手にすることが出来た。

でも、私はペン習字を全然習っていないので、日常書く字はジツに下手です。恥ずかしくて書道の師範を持っている、なんて言えやしない。

今、その痕跡が活躍するのは熨斗やご祝儀袋の表書きくらいで、書道そのものが活躍するには至っていない。それはもちろん、夫が健在だからだ。

私が書道の師範を取ったわけは実は、もうひとつ訳がある。
それは私の祖父が亡くなった時に祖父の戒名を書きたかったからだ。

祖父は私たち姉妹にとても優しい人だった。60歳で、仕事を引退してからはずっと趣味に生き、書道をよくしていた。畳くらいの大きな紙に揮毫していた姿が、今も思い出される。

そんな祖父は児童の部で最高位を取った私をとても喜んで、『将来は書道を教えるようになるといいなあ。』と目を細めていたものだ。

そんな記憶が私を書道の世界に進ませたのだと思う。

だけど、祖父が亡くなったとき、気が付いてみれば、祖父の戒名は既に書かれた後だった。
当たり前と言えば当たり前だけれど、密かに胸に秘めていた私にとっては落胆すべき事だった。

2つの理由があって、師範を取ったけれど、書道は未だに誰にも教えてはいない。
我が子には無理だった。子供たちは誰1人として書道の得意な子はいない。はっきり言って『下手』。

我が子に教えると言うことは他人に教えることより難しい。

私が書道の師範を取るに至った動機は私しか知らない。
不謹慎で、誰にもいえない。

けれど今日、私は毎晩筆を執り続けたあの1年がたまらなく、いとおしい。(最初に就いた先生は『毎日最低10分間、筆を握るように。』と訓示した。サボり屋の私は1年間しか守れなかった。

どんなに遅くなっても、時間がなくても、眠くて思うように筆が運ばなくても、墨つぼに墨汁を入れ、1年だけは頑張った。(本当は2年、って言われたけど)長尾先生、どうしているかなあ。先生の言うこと、1年だけだけど、私は必死で守ったよ。そのおかげです。私が短期間で、師範いただけたのは。

いろんな意味が込められた書道の師範免許、未だ行使することなく今日に至っています。
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by mamaten | 2007-08-06 03:21 | 今更言えない事 | Trackback | Comments(6)
2007年 07月 23日
本当は・・・・・
私はお見合い結婚だった。   当時は既に恋愛結婚が殆どの時代、ちらほら『出来ちゃった結婚』が珍しくもなくなっていたその時代に、私はお見合いをした。
それは単に、自分が結婚したい、と思う人がいなかっただけで、全くモテナカッタワケジャナイ!

全く考えていない人に、思いがけず思われたり、積極的なアプローチに逃げた事もある。初対面でいきなりプロポーズされた事だってあった。・・・あいまいに笑うしかなかったけれど。   後で丁重にお断りした。   だけど、後にも先にもプロポーズされたのはこの時だけっだた。

私は、悲しいかな、恋愛が出来なかった。まして、結婚なんて到底考えられない。
そんな中、お見合い話があった。

あってみたら、良くも悪くも無く、嫌悪感も無かったので、次も会うことになった。で、2回あった後、相手の家とは隣町だけれども、町の境界の隣同士なので、実は距離的には近く、何回もお付き合いして、駄目になれば噂になってもかわいそうだ、と、言うとことになり、(私は全然構わなかったけど)父は「決めるか、断るか、」と決断を迫った。

そんなことを言われても、決めようが無く、考えた末、私は言った。
「相手が断ったら、こちらも断って。OKならそれなりに話を進めて。」と。

ところが相手はOKし、話は進むことになった。まー、嫌になったら断ることも出来るのだから、と、それに結婚なんてこんな物なのかなー・・・と真剣に考えるには考えたのだけど、本来のaboutな性格が功を奏したのか、結婚式当日になった。

・・・それは私なりに真剣に考え、悩み、決断したつもりですよ。  なのに、

「これから御神殿へ進み、結婚のお式を執り行います。こちらにお並びになってお待ちください。」
と、お世話係のホテルの人に言われて整列した時、私は初めて気がついた!!!

     『私は結婚なんかしたくない!!!』  と。

なんと言う事! になってしまったのだろう。   思わず、隣にいる夫になるべき人を見た。
そして、振り返って、私の後ろに並ぶ両親や家族親類に目をやった。

    そこには、慌て、オドオドして、キョロキョロ周りに視線を走らせるものなどなく、厳かにも今から始まるお式に参列するのを静かに待っている姿だけがあった。

もちろん白無垢姿で身支度も済んでいるのに、私は 『 違う!! 私は結婚なんかしたくない!!!』  と心の中で叫んだ。逃げ出したくなって、後ろを又振り返ると、やっぱりそこには
式を待つ姿が・・・・・。  泣きたかった!逃げ出したかった!

でもこの状況から逃げ出す勇気がない!!!

しょんぼりと、視線を落とし、どうしようか・・・と、混乱した頭を整理すべく内掛けの端をギュッと握り締めた時に、気が付いた。

事の次第は、最後は自分で納得したはずなんだから、逃げ出さずに前に進んでみよう。焼いて食われるわけじゃなし・・・。

    ・・・・そしてあれから色々あったけど、何とか今日まで結婚生活は続いている。
でも、未だに夫からプロポーズはされてないし、言われたことも無い。

「あのー、まだプロポーズ聞いてないけど。棺桶に入ってから言われても実感ないよ。」と夫に言ってみるが、反応なし。

  
いまさら誰にも言えない、まして夫には言えないあの日の出来事
こんな気持ちわかるかな・・・・・。
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by mamaten | 2007-07-23 01:33 | 今更言えない事 | Trackback | Comments(7)